Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

写真におけるセンスは、幾何学的センスにある。

アンリ・カルティエ=ブレッソン

フォルム上の構図を厳格に築かなければ、被写体のアイデンティティの全てを見せることはできない。私にとって写真とは、面と線と色価が織り成すリズムを、現実の中で認識することだ。

 

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決定的瞬間

ブレッソンにとって、写真は「幾何学」そのものでした。
フランス20世紀の偉大な写真家として名を残した、アンリ・カルティエ=ブレッソンは「決定的瞬間」という作品を残し、写真に必要なセンス、それは幾何学であると言い放ちます。瞬間を切り取った写真を「意味づけて」見せるためには、ファインダーを通して切り取る世界に、自分もまた関与していると肌で感じること。そのために必要なのは集中力、感情と感覚のバランス、そして幾何学のセンスだ、と語っているのです。そこで疑問になってくるのが、何度も強調して必要と語る「幾何学」とは一体どんな学問なのか?ということだと思います。もし写真と撮る上で、幾何学をマスターしていれば、ブレッソンのようにセンスあふれる写真が撮れるに違いないと踏んだ僕は、早速、幾何学について学んでみることにしました。

 

幾何学と写真の関係性 

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幾何学とは数学の分野の一つであり、対称的な図形を用いながら、中心を描き出す、あるいは中心からの広がりを予測する公式である、と僕は認識しています。幾何学の歴史はとても古く、その考察は古代ギリシア時代から熱心な学者たちによって研究されていた、と推測されています。有名な学者にはタレス、ピタゴラスユークリッドデカルトオイラーアインシュタイン、とそうそうたるメンバーが集結していました。そんな彼らを魅了した幾何学は、なぜ現代に至るまで解明が続いているのでしょうか。なぜ天才たちは幾何学に魅了されたのでしょうか。それは幾何学が世界に対する認識を変えてしまうほどの真理であるからだと考えられます。

幾何学的視点を持つことは、いかなる学問を学ぶよりも重要なことでした。なぜなら幾何学的視点を用いることによって、全ての現象に存在する中心を認識することが可能になるからです。つまり、人間の創造や宇宙の創造さへも幾何学的視点を用いれば、中心を発見して、そこに存在するであろう「核」を予測することが可能になるということです。これは写真を撮影する上でとても重要な概念でした。美しい写真には必ず集中する視点が存在します。写真だけには限りません。絵画や文章においてでさへ一点に集中する視点を描き出すことは、人の注意をひくためには必ず必要な技術でした。人間は視覚における性格上、複数の視点を見つめることはかなり無理が生じます。文章においても、その目的が複数の結末を描いていれば、たちまち混乱し、理解することは難しくなってしまいます。しかし、ブレッソンが考えていたように、幾何学的視点を用いて中心を導き出し、構図に収めて撮影することで、そこには確かな視点における中心が発生します。すると一枚の写真は、風景を切り取る以上の、何か予感が感じられるような核、つまり「意味ある写真」が映し出されるのです。

こうした幾何学を、作品に投影する技法のことを「透視図法」と呼びます。美術界ではかなり有名な技法ですが、平面的な表現をする上で「透視図法」は多くの作品に用いられています。最後に幾つかの有名な作品を紹介しようと思います。幾何学の素晴らしさを感じ取っていただければ幸いです。

 

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もしインテリジェンヌが好きだとしたら、きっと写真家になるべきだ

最近のぼくは絵を描くでもなく、音を奏でるでもなく、はたまた詩を詠うでもなく、写真を撮ることにした。その経緯は単に、「最も手軽に対象を捉えることができる方法だから」だと思う。「思う」というのは変な言い方かもしれないけど、今のぼくには「写真」と言われても、ただ対象を切り取るだけの道具としか考えていないのだから、仕方がない。それでもなんとなく写真の魅力に惹かれて、手に持っているiphoneのカメラで気になったところをパシャパシャ撮り始めた。

 

天才アラーキーに学ぶ、道具としての写真の使い方:

 

ただ単に写真を撮っていても、なんだか味気ない、つまりインパクトに欠ける「ぼやぼやした写真」しか撮れないことに気がつく。そこで写真といえば、荒木経惟さんの名前を聞いたことがあったので、彼のインタビュー本を読んでみることにした。ただいきなり彼の写真を覗くことは、度肝を抜かれたと言えばいいのだろうか。目の前にはエロスな、とても直視できないような光景が広がっている。ぼくは恐る恐る手で覆い隠した指の隙間から、その淫らな写真をまさにカメラのレンズ越しに対象をゆっくりと覗くように眺めていた。

アラーキーは最初に「あなたの写真はとにかく枚数が多いですね。中には載せる必要のない写真もあるのでは?」と質問されていた。確かに対象が人物なだけに、写真集に載せる必要もないような写真がたくさんある気がする。撮ったもの全部載せているんじゃないかという気すらある。すると彼はその時のことをパッと思い出したようで、早々と質問に対して話し始めた。

「撮りたいものを撮っていると、途中でやっぱり高揚していくというか、ぽんぽんぽんぽんってファインダーの中に入っちゃう気分になる。ずーっと見続けたりしていると、トリップしている感覚になる。だから枚数がどうしても多くなる、一点を選べっていうんじゃなくて、この一冊全体になるんだよ」

この時点でぼくは、アラーキーの溢れだす言葉の数々に、異次元感覚を抱き始めていた。それは目の前が突然歪曲し始める、天才と呼ばれた人たちの持つ「異次元歪曲フィールド」のことだ。写真を撮っていると、トリップしていくなんて聞いたことがない、それはつまり、エロスな写真を撮り続けていると、そういう感覚が現れてくるのだろうか。

 

写真は覗くもの:

 

アラーキーは自分の写真の原点は「覗きから始まった」という。

「中でもすごい危ないババアがいて、覗きをさせてくれたの。客とやってるところを安く見えるっていう覗き穴があるんだよ。それがオレのカメラオブスキュラの始まりだねぇ。わざと見せて反応見て喜んでるんだよ。冗談じゃないよ」

どうやら、そもそも写真とは「覗く」という行動があって、その秘密の光景を切り取っているということらしい。ぼくはこうした経緯を聞いて、岡本太郎の言葉も同時に思い出していた。

「写真というのは偶然を偶然で捉えて必然化することだ」

写真の根本を感じたような気がした。

 

インテリジェンヌが好きだった、天才アラーキー

 

「写真家は境界線だからね。こっち側とあっち側の、彼岸と此岸の。写真家は川ですよ。三途の川かもしれないね」

アラーキーは写真家のことを「境界線に立つ人たち」と称した。自分はどちらにも干渉しない、間を取り持つ人間なんだ。それには彼がインテリジェンヌ好きだったということが関係しているようだ。アラーキーは「さっちん」という写真を撮っている時に、あるガキ大将を主人公にした。彼はカメラを向けると、それに気づいたのか、急にカッコつけ始めた。そしてその視線の先には、清楚で目のはっきりしているお姉さんがいる。どうやらカメラに映っている、かっこいい自分を見せたいようだ。しかし、彼はお姉さんとは視線を合わせるだけで、自分から話しかけようとはしなかった。二人の間には何か壁のようなものが存在しているような気さへする。その代わりに、彼に好意を寄せている女性がいた。その女性は誰とでも積極的に話しかける、明るい典型的なB型女性だった。

アラーキーはこの光景を目にして、とても面白い構図だなぁと感心していた。何故ならアラーキー自身も清楚なお姉さんに好意を寄せていた思秋期時代があり、そういう時に限って、別の天真爛漫な明るい女性が寄ってくるという経験があったからだ。こうした三角関係は、とても写真家の姿に似ているという。まず自分がいて、その視線の先には好意を寄せているインテリジェンヌがいる。そして、その後ろには明るく子供のような笑顔を見せる女性がいる。まさに境界線に立つ人だ。インテリジェンヌ好きは、写真家の素養がある境遇に立っている。

 

写真に潜む、快感の種:

 

写真家として時代に名を残したアラーキーの言葉には、やはり一種の麻薬成分のような、LSDを体験した人たちに共通する「快感」というキーワードがよく登場する。

「確かにオレはなんでも物にしたがるとことはあるよね。物にすると、クッて、冷たくなる。それが一種快感っていうかさ。物にするっていうのは死ぬってこと、殺すことでしょ。そうなるとすごい快感だっていうことはあるね」

彼にとって「写真を撮ること」は、ある人がお酒に溺れたり、タバコを吸ったり、麻薬でトリップするような快感を伴っていた。写真をおさめることは生きることと同じ意味を持っているという。

「普通はきれいきたないで撮るよ。でも、もっと写真は、何つうんだろうね。写真はだから、生であり死でありっていうところなんだよ。たぶんそれが人生なんですよ。そういうような言い方しかできないんだ。言葉を超えて、有無を言わさずくるもんなんだよね。超えちゃうっていうか、その先を促すっていうか。だから、答を見つけるには、やっぱり撮るしかないよね。もうともかくがんがん撮る」

そのままぼくは、アラーキーの言葉の数々を思い浮かべながら、写真を何枚か撮っていた。ふと誰かが目の前を横切る。ぼくは突如現れた被写体に慌ててボタンを押してしまい、カメラの連写機能を起動させていた。パシャパシャ連続でシャッター音が鳴り響く。ぼくはすぐにボタンから手を離した。いきなり、シャッター音がなって驚く人たち。そこでぼくは一種のトリップを体験していた。まともに動いてもいないのに、バクバクと鼓動する心臓。耳の奥でリズミカルにパシャパシャ音が聞こえてきて、だんだんと意識が遠のいていく。カメラに酔う、まさにそんな感覚。ハッと目がさめると、耳たぶは赤く染まり、汗ダラダラの自分に気がつく。自分自身が物になる感覚。意思のない対象としての素材となり、被写体として殺される感覚。ぼくは写真に潜む「快感」を自分の身で感じていた。

 

天才アラーキー 写真ノ方法 (集英社新書)

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さっちん (フォト・ミュゼ)

さっちん (フォト・ミュゼ)

 

 

バリアー展開、危機に備えよ! バリアー人間が考えていること、することの意味について。

時々、なんだか近寄りがたい人に出会うことがあります。「人を見た目で判断してはいけない」というけれど、それでも異様な雰囲気を纏っているあの人。話しかけることさへもなんだか「危うい」と感じてしまう。コレって一体どうしてなんでしょう?ぼくはそんな近寄りがたい人たちのことをバリアーを展開しているのではないかと考えています。なぜなら、ぼく自身、日常生活をしている中で「なんだか近寄りがたい人」と言われることがあるからなのです。それもそのはず、ぼくは常に、自分の周りには人に見えない透明なバリアーを展開していました。そうすることで、余計な関わりからの接触を避けたり、自分だけの空間に安心して閉じこもることができました。確かに、ぼくには友達と呼べるような信頼できる友達は少ないし、誰かと一緒に出かけて、楽しい休日を過ごすような経験は全然ありません。それでもぼくには、デメリットをものともしないだけの面白さを、バリアー展開に見出していました。バリアー展開することで、得られる効果がいくつかあります。それは、「空気が楽であること」「人それぞれには独自の空間があること」「孤独な時間を持てること」です。

 

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僕は飢えか豊かかの平等ではなく、知識の平等と言う点で世界に貢献したいです。ーー竹花貴騎

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