神灵附体

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望まなければ、手に入るということについて

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ぼくは愛を求めています。愛とは自然への、生き物への、すべてへの愛です。愛することは、讃えることでもあります。鳥たちの歌声に、吹き渡る風の音に、花が見せる枯れ葉の落ちる瞬間、すべてが奇跡のように思えて、そのすべてを見せてくれたことへ感謝します。あなたは、この世界には実に「単純な法則」があるのはご存知でしょうか?
 

//世界のシンプルな法則

 
それはただ調和するということ。それだけで世界はいつまでも繁栄を続け、平和をもたらすというのに、以外にもその事実を現実だと認めない人たちが多いのです。自分と相手が讃えあうことで、お互いの愛は深まります。相手の美しい声、時折見せる一粒の涙、誇り高き魂を認めあい、讃えあう。それだけでぼくたちは調和するというのに…
 
そんな報われないこの世界には、ヒマラヤ聖者と言われている人たちがいます。ヒマラヤ山脈という極地で、自ら険しい道へと進み、愛を見つけ出す人たちです。彼らはガンジスのせせらぎ、吹きすさぶ風、舞い踊る木の葉、うなりをあげる雷雲の音を、完全に調和した、オーケストラとして映し出し、そのシンプルな自然の深淵さから、宇宙と一体になります。
 

//債務とは何か

 
彼らは毎日杖を手に山を登り、ねぐらである洞窟から六キロほどの山の頂上へと歩き続けます。彼らは会話することなく、視線を合わせ、モノゴトを判断し、コミュニケーションを取り合います。彼らはただ自らの債務を果たすべく、山にこもり、日々を感謝して過ごすのです。
 
ヒマラヤ聖者に住むものは、債務とは何かを語っています。「人は自らのカルマの結実を刈り取らなければならない。カルマの法則は避けられず、この世の偉大な哲人みなが認めることだ。『まいた種は刈りとらなければならない』嫌悪も執着もなく、自らの債務を巧みに行うことを学びなさい。何かが自分の悪いカルマを洗い流すなどとは思うな。川で沐浴し、寺院から寺院へ巡礼することが、おまえをカルマの束縛から自由にするのではない。そうした考えは迷信に過ぎず、何の根拠もない」
 
ヒマラヤ聖者にとってカルマとは、逃げられない運命なのではなく、果たすべき運命だということです。逃れられない運命を清めるために、毎日を無駄に祈りや沐浴で過ごすことの、無意味さを彼らは知っているのです。
 
ヒマラヤ聖者が債務を果たすために何かを語るとき、彼らは自分の語りは物語であると言っています。「私はこの世界自体が物語であると感じる。人々が私の体験から恩恵を受けることを祈る。私はそのために講義をし、教えている。いつも生徒たちにこう言う。私には何があり、何か手渡していないものは何だろう」
 

//偉大な人たちは望まないから手に入れた

 
偉大なことを成し遂げているのならば、それなりの報酬を得ることを普通なら望むだろうけれど、彼らは、名声を得ることを好みません。なぜなら、名声と評判は、霊性の道にいる者にとって大きな障壁、堕落の原因であるからです。霊性の徒は、肉体、心、魂を神に捧げ、個人的な欲望を何ら抱かぬことで、そうした欲望を完全に洗い流さなければならないのです。
 
ヒマラヤ聖者は、名誉を堕落だと考えています。確かに、人の役にたっていると考えると、それに甘えて少しぐらいは楽をしてもいいんじゃないかと考えてしまいます。そうしていつの間にか、食やお酒に身を落としてしまう。それが堕落なのは間違いありません。
 
それを防ぐためにも、ぼくたちは肉体、心、魂を「神」に捧げなければならないのです。「神」という名の自分に。そして見返りを求めずに、ただ讃えること。そうすることで、運命を果たすべく物語は進み始めるのです。