Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

「あなた」には何もかも削ってまでしたいことがあるか?

わたしは
この世界に 何よりも 自分に
怒っている
 

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ぼくには何もかも削ってまでしたいことがある。それは天才について研究すること。この世界に生まれてきた理由を知ること。それ以外は何もいらな い。人の人生は短い。できることは限られている。だからすべきことを見つけて、ただそれだけのために生きる。それは人間として生まれてきたのなら当然のこ とではないだろうか?
 
それを見つけて実行するには、何が必要なのか。それは何よりも知りたいという貪欲なまでの欲求。それ以外のことは何もいらないという断る力、孤独の力。そして、何かの役に立ちたいという愛する感情。それら三つの力が合わさって、初めてぼくたちの人生は始まるんだ。
 

>貪欲な欲求の先に

 
現 代のぼくたちは、あまりに知りたいという欲求がない。なぜなら、ひと目周りを見渡せば、そこには快楽という名のオアシスがあるからだ。テレビにパソコン、 ゲームにお菓子。ぼくたち人間は動物だから、それだけで満足してしまう。けれど、そんな人生、あまりに意味がないじゃないか。あまりに希薄すぎる。もっと 貪欲に探さないといけない。生きる理由を、死んでも知りたい。それだけの欲があることをぼくたちはすっかり忘れてしまっている
 
古 代の人たちは、ただ生きる理由を探していた。だってそれしかすることがなかったのだから。だから、神話を描いた。聖書を描いた。瞑想をした。そして、見つ けた。生きる理由とは、ひたすらに感謝し続けることなんだと。ぼくたちを想像した神さまという存在を讃えて、芸術という形で返すことを望んだ。
 
芸術とは思いの形である。芸術とは生きた証である。芸術とは哲学である。人間として生きたからには、芸術を生み出さないといけない。これは運命である。人として生まれてきたからには、避けては通れない掟なのだ。
 
ぼくにとっての芸術とは、天才として使命を全うするいこと。世界中の人を天才にすること。それができたのなら、死んでもいいと思っている。いや、むしろ、その世界が完成したのなら、ぼくの役目は終わりを迎え、生きる理由を失ったぼくは、自然とこの世界から姿を消すだろう。
 
それは交尾を終えた後のカマキリである。多くの虫は交尾をして、子孫を残すことができたら、その栄養を子に託すために、母親にその身を与える。ぼくは昔から虫が好きだった。何故かわからなかったけれど、ようやくその答えが見つかったような気がしているのだ。
 

>断る美学

 
現 代のぼくたちは、あまりに他人にすがって生きている。誰かのため。会社のため。彼女のため。しかし、そんな責任感は何の役にも立たない。人は自分のために 生きている。それ以外の理由はありえない。ぼくたちは他人の気持ちを知ることができるのだろうか。そんなことはできない。だから、自分のために生きる。そ んな当たり前のことを忘れてしまっているのだ。
 
ぼ くたちが望んでいるのは、自分の幸福以外にはありえない。そのためにはどうしたらいいのか。それは断ることだ。人生は短い。他人のことなんかにかまってい られる余裕はない。時計というものがある。寿命というものがある。けれど、そんなくだらないデータのせいでぼくたちは、生きるということを本当は忘れてし まっている。もしかしたら、明日道路に出て、車に轢かれて死んでしまうかもしれない。三秒に一人の人間が死んでいるという話を聞いたことがある。人間の生 命なんてそんなものなのだ。一呼吸している間に、一人また一人と死んでいることを知らないのだ。
 
幸福に生きるには、自分がしたいことをすればいい。自分がいちばん気持ちいいと思うことをしたらいい。そんな単純な法則があるのに、ぼくたち人間の中で実行 しているのは、わずか数%だ。他人の目を気にして、余計なことで着飾って、その内に死んでいく。ぼくはみさなんには申し訳ないのですが、なんて馬鹿馬鹿しいんだと、いつも腹を立てている。
 
ぼくには夢がある。それは世界中の大人たちを天才にすること。そうすると、世界は変な人たちだらけになる。一つ道を曲がれば、そこには変な大人たちが騒いで いる。その周りには子どもたちがいて、変なおじさんの後についていって、いろんなことを聞いて、体験して生きている喜びを実感する。それだけで世界は喜 びに満ちたものになる。
 
ぼくは小さ い頃から、親に「知らない人についていってはいけない」と言われて育ってきた。でもそれはぼくにとっては意味がわからなかった。だってそんなのつまらないじゃないか。そう思って、知らないおじさんにばかりついていって、色んな奇妙な体験をした。でもそれがすごく楽しくて、幸せたっだことを今でも思い出す。
 
夢を見るのは大人たちではない。夢を見るのは子どもたちだ。大人たちには責任がある。子供に夢を見させるという義務だ。それでいいじゃないか。他に何がいるのだ ろうか。子供が笑顔で褒めてくれて、大人たちはその笑顔を糧に、もっと子どもたちが驚くような夢を見させる。子供には夢を実現させる力はないけれど、大人 たちには夢を実現させる力がある。
 
何度でも言おう。生きる目的を失った 人たちへ。ぼくたち大人が生きるのは、だれのためでもない。自分のためである。自分が気持よくなるためである。そのためには子供の笑顔が最高の糧となる。 ぼくたち大人は子供に夢を見させる。夢を実現させる。それがぼくたち大人の生きる目的なのだ。
 

>愛する力が個性をつくる

 
現代のぼくたちは、あまりに周りに流されて生きている。自分が本当にしたいことをしていない。限られて時間の中で、妥協し、甘えて人並みな生活を強いられて いる。それは人の形をした、ただの動物である。動物はその身をもって、人間たちに生きる目的のない生活が、どんなに退屈なのかを教えているのに、誰もそれ に気づいていない。
 
ぼくにとって、 愛とはすべてである。愛とは自分を形取る集合体だ。宮沢賢治は愛について言及している。「わたくしという現象は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い 照明です。(あらゆる透明な幽霊の集合体)風景やみんなと一緒にせわしくせわしく明滅しながら、いかにもたしかに灯りつづける、因果交流電灯の、ひとつの 青い照明です」
 
愛とは、集合体であ る。透明な集合体である。幽霊のように揺れ動く、存在の不確かな集合体である。それだけ愛とは淡く、脆く、形のないものだということなのだ。そんな愛を 確かなものとするためには、死という現実に直面する必要がある。死に直面したときに、人の愛は確かなものとなる。
 
死は命の存在を明るみに出してくれる。死は永遠にも思える時間の儚さを思い出させてくれる。死は生きる目的のない身体に焦りをもたらし、行動するための力を与えてくれる。死と愛は密接する存在である。愛あるところに、死は存在し、死あるところに愛は存在する。なぜなら、死は確かなものであり、愛とは不確かな ものであるからだ。
 
愛を知るには死を常に考える必要がある。死はあたりに溢れている。その琴線に触れるだけでいい。それは勇気のいることだけれど、勇気はいつだって世界を変える力をもって いる。勇気を持ち、恐怖の中を進めばいい。そうすれば愛はいずれ不確かなものから、確かな存在へと形を変えていくだろう。
 
一 度、自殺するような行動をしてみればいい。電車が走るとき、手を触れていればどうなるか。下り道でブレーキをかけずに、走りだせばどうなるか。それは怪我 をするかもしれないし、死ぬかもしれない。もちろん、そうしようと言うわけではない。しかし、天才とは死ねない生き物である。使命を全うするまではどうし たって死ねない生き物である。死ぬ間近、天才の頭のなかには色んなできことが横切っていく。その思いが死から、彼らを生かしてしまうのだ。
 
運 命に生きるものは、死さへも自由には選ばせてはくれない。もし、そう思えるような出来事があったのなら、あなたには生きる目的があるということだ。愛 が形となってその身を守ってくれているのだ。しかし、それは不幸なことに、運命という歯車に回るということになる。もう決して自由には生きられないだろ う。けれど、運命に従って生きるという喜びはどんな快楽にも勝る。運命に生きることを恐れてはいけない。その先は暗く、果ての見えない世界だけれど、ただ 目の前だけを便りに一歩一歩進んでいけば、やがては頂上にたどり着く。果ては見てなくとも、果てのない道もまた存在しないのだから。