Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

偽れないキモち

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詩人「谷川俊太郎」は対談の中でこう言っている。

 

I「どうして谷川さんの詩はあんなにもわかりやすいのでしょう」

T「僕は難しいことを考えられない人間なんですよ。世界の意味とか、そういうことを突っ込んで考えるタイプじゃなくて、なんか世界が快ければそれでいい、美しければそれでいいっていうタイプなんですね。だから、哲学者には絶対なんれないって思ってるんですけど」

 

 

 

僕 はハッとさせられた。なぜなら、世界の意味を考えるということをしないなんて、それこそ考えられないからだ。僕が世界の意味について考えだしたのは、小学 生4年になったころだと思う。その時の担任の先生は、カンボジアから帰ってきた人で、僕たちとカンボジアの子供たちを比較して、毎日のように泣いていた。 何が悲しいのかわからなかったけれど、何だか僕も悲しくなってきて……一人考えるようになった。

 

 

ど うして先生は泣いているんだろう。ここはカンボジアでもないし、醜い争いごともない。なのに、なんで今ここにいない人たちのために泣けるんだろうって。印 象的な言葉が、頭をよぎる。「カンボジアには大きな棚があって、そこを開けると、死んでしまった子供たちの頭骨が並んでいる。それに衝撃を受け、途方もな くなって、自分の力の無さに悲しくなった」先生はそう言っていた。

 

 

意味がわからなかった。それは今でも同じなのだろうか。少しはその痛みや悲しみが共感できるようになったのだろうか。でも僕はカンボジアにいったことがない。そこにすらいかない僕は弱虫なのか。それとも現実から目を背ける臆病者なのか。思考は、一切晴れることがなかった。

 

 

だ からと言って、カンボジアに行きたいわけでもない。それはツライことだし、わざわざそんな所へ行く意味がわからないからだ。これからも、日本がカンボジア のようにならない限り、僕はその意味を見出すことはないだろう。そんなことを小学4年のころから考えていた。僕にとって、世界の意味について考えることが 当たり前だった。

 

 

世界に意味を考え るとき、それは何気ない日常に潜んでいる。例えば、僕が今からとっさに道路の真ん中に立って、車に轢かれて死んでしまったとしよう。それで世界は変わって しまうだろうか。それを何度繰り返そうと、世界は一向に姿を変えない。それは日本の自殺者の数からみても目に見えてわかる。世界に意味はない。

 

 

意味があれば、人一人の生命だって死んでしまったら、世界は死んでしまうだろうから。でも世界は死なない。その後も、何か反省の色を見せる素振りもなく生きていく。世界はそんなものなのだ。とても単純な答えだ。世界に意味はない、それが僕の導き出した法則だ。

 

 

だっ たらこの意味のない世界をどうして生きる必要があるのだろう。そう考えていくと、また一つの単純な答えが現れてくる。意味がないのなら、それでいい。しか し、人間は言葉に意味を見出す。何の変哲もない木の塊に、机という付加価値を付け加えることができる。人生も一緒だ。生きる意味を見い出せばいい。机とい う価値を生み出したように。

 

 

僕はある時、自分の存在する意味の無さに、 死んでしまった方が楽なんじゃないかと思ったことがある。けれど、死の間際で、思いとどまり、生きていくことにした。僕の人生に意味なんかないけれど、そ の意味を見出すのが人生なんだと、わかったから。僕の人生には意味がある。それは世界中の人たちを天才にして、世界を平和にすること。それが僕の使命だ。

 

 

だから僕は死ねない。カンボジアに行く気もない。泣くことはいつだってできる。しかし、それだけでは世界は変わらない。何か行動しなくてはいけない。悲しんでいるだけじゃ、もっと悲しい日がやってきてしまうから。