Pythagoreans

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天才の行動から学ぶ才能の見つけかた「天才行動学の研究」

  

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天才とは、1%の閃きと99%の発汗である

 

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地球上には110億の人類が存在し、その中でも特別に際立つ存在「天才」たちは自分だけの才能を発見して、この弱肉強食の時代を生き抜いてきました。その才能は多くの人たちの役に立ち、愛され、永く名を残しています。

 

 

さて、ぼくたちはここで一つの疑問が浮かび上がりました。それは「どのようにして天才たちが、人類の最も望んでいる才能を発見したのか」という疑問です。ぼくたちはこの人類の大いなる謎について天才たちの行動から考えてみようと思いました。その名も「動物行動学」ならぬ「天才行動学」です。(行動学とは生き物がどんな状況の時に、どんな反応を示すのか研究する学問です。生物プログラミングのコードを見つける研究ですね)

 

 

そんな視点から天才たちを観察していると、一つの仮説が浮かび上がってきました。それは「天才たちは毎日のように死と向き合っているのではないか」というものです。どうしてそう思ったのかは、以下の言葉を見てください。

 

 

もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?スティーブ・ジョブズ

 

このところずっと、私は生き方を学んでいるつもりだったが、最初からずっと、死に方を学んでいたのだ。レオナルド・ダ・ヴィンチ

 

武士道は死狂ひなり。葉隠

 

 

 このように天才たちの多くは死と向き合い、死ぬことは生きることだと言っているからです。そこで「死とは何なのか」考えてみることにしました。

 

 

死とは科学の発展した現代では何もメルヘンな話ではありません。一見、人類は死んでいるのか、眠っているのか区別をすることができません。息が止まっている?話しても反応がない?そうかもしれませんが、その体の奥には意識が存在して、人間としては生きているかもわかりません。かの養老孟司さんも、「生の定義がわからないぼくたちには、死の判断さへもうまくできていないのが現状です」と言っています。

 

 

ただここで問題となってくるのは、死は定義できないと決めつけてしまうことです。その瞬間に人は活動をやめ、何もしない、考えないただの生き物に成り果ててしまいます。ぼくたちはそれこそが「死」なのではないかと思っています。

 

 

考えることをやめ、生きる希望を見失い、愛する人が先立たれた時に、人間は「死」と向き合うのです。天才たちの人生はまさに「死」と向き合うことで生きてきました。いかに死ぬべきか?今、死んだら世界は変わってくれるのか?何のために生きているのか?その疑問の末に、天才たちは「死」と生涯にわたって向き合うことを決めたのです。

 

 

それでは次に、「死」とはどのように「才能」と関係しているのかについてご紹介したいと思います。「死」は人類が最も望んでいる「才能」を呼び起こします。あなたは走馬灯という言葉を聞いたことはあるでしょうか?人が臨死体験をした時に見るアレです。

 

 

実はぼくも臨死体験をしたことがあります。その時のぼくの心境は迷いと不安に押しつぶされていました。その頃は高校生で、何のために勉強しているのか?平凡すぎる自分に生きている価値があるのか?そんなことばかり考え、生きる目的を持たないのだから、死んでしまってもいいんぢゃないかな?と思っていました。

 

 

そんなことばかり考えていたある朝、目覚めると布団から出ることのできない自分がいました。朝食もろくに食べられず、水さへも飲み込むのがやっとです。ぼくはそこで初めて「死」というものと向き合いました。(それは自分を見つめるということでした)布団の上から動けなくなったので、自分の過去について振り返ってみようと思い、意識の芽生え始めた幼稚園での出来事を思い出します。幼稚園では虫や花の図鑑を占領し、先生から虫博士と言われ、無性に嬉しくなったのを思い出しました。さらにエジソンが好きだったので、虫や花を実験体にして、考えうるすべての実験をしたりしました。その行いは全知全能の神さまになったようで、ぼくの興奮は最高潮に達しています。子ども時代を終えると、やがて思春期での出来事を思い出しました。初めて愛した女性とのひとときを何度も何度も思い出します。次には宮沢賢治の言葉を思い出しました。「わたしはデクノボウになりたい」とこのように次々と人(物?)を思い出していきます。その時、ぼくの思考はたった一つの目的だけを追っていたことに気づきました。それは自分の才能についてです。この時に、ぼくはハッキリと自分の才能を見つけることができました。その死に際に思い出された記憶は、ぼく自身であり、この世界に存在する全てでした。「ぼくの生きた証はそこかしこに存在し、それがぼくをつくりだしている」そんな気がして、ぼくは心の奥底に潜む「愛」を発見したのです。

 

 

このお話でわかったことが一つあります。それは「才能とは、死の間際に見える愛のことである」ということです。人が死にそうな時は、大抵の人たちは後悔して死んでいきます。そして、自分を責め無能だと悟り、もう老人となった頃には何も行動することができず、精神的な苦しさに耐えることもできずに、死んでいきます。ですが、天才たちは毎日この体験をしていました。そうすることで、毎日自分のしてきたことやこれからすることについて考え、迷いのない選択をし続けることができるのです。

 

 

死と向き合うことは無限のエネルギーを生むことができます。「あなたは明日、死にます」と言われて、そのまま「ハイソウデスカ。ワカリマシタ」といって、死ぬ人はいません。間違いなく自分のしたいように行動をするはずです。天才たちはこのあまりにリアリティーのない現実を、それでも必ずやってくる死という試練に真剣な眼差しで立ち向かい、死を己のものとすることができました。

 

 

死を習慣にする。これはあまりに想像の範囲を超えていて難しいと思うかもしれませんが、そんなことはありません。まずは毎日「死」について考えてみてください。「死って何だろう?」と夜、寝る前に考えてみてください。そうしていく内に、「死」は向こうからだんだんと近づいてきます。レオナルド・ダ・ヴィンチが言ったように、「死に方」について考えていければしめたものです。あなたはきっと才能を見つけることができると思います。

 

 

ちょっと危険な才能の見つけかた

 

 

理論から言えば、才能は死ぬような体験をすることで見つけることができます。ジョジョの奇妙な冒険で多くのスタンドを開花させた「黄金の矢」やハンターハンターで洗礼と言われて念能力が開花するように、ある一定の人類は強制的に死を体験することで、能力を発動させることができます。このように身体的にも精神的にも限界の苦痛を与えることで、才能を見つけることができるのです。人が死ぬためには、食事を取らない方法が最も手軽でいて、迷惑がかかりません。天才に菜食主義が多いのはこのためです。正直なところ、菜食で体が健康体になるというのは、あまり信用できません。野菜や果物だけでは、あまりにエネルギー分が足りないからです。(肉や穀物のあまり食べられなかった原始人は20~30歳も生きられません。しかし、単純な握力は人の何倍もありました)ですが、人類というのは不思議なもので、逆境にこそ力が発揮されるものです。菜食で記憶力が上がったり、体が軽くなったりするのは、生き物が死にそうな時にみせる、あの驚異的な力を持続させているからなのです。持続させられるのが人類の凄みでもあるのですが……とまぁ、こんな風に菜食主義として生活してみるのもいいと思います。