Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

現実という名の超妄想的解釈

 

ぼくたちは現実に生きています。そのことについて疑問を抱く人はまずいないでしょう。だって現実は一つしかないのですから…。誰にとっても丸くて固い灰色の物体は「石」だし、黒くてゴミ捨て場に群がる羽のついた生き物は「カラス」だとわかります。そしてそれが正しいのだということも…。

 

 

けれど現実はいつだって正しいのでしょうか、ぼくは常に疑問を感じています。現実とは「生きること」。ぼくたち一般人にとっての現実とは、「大学へ行くこと」であり「会社へ行くこと」であり「家庭を持つこと」。ぼくらが過ごしている現実は、「お金の心配もない」「食べ物に飢えることもない」「孤独になることもない」何の心配もない現実なはずなのに、何故だか日本の自殺者は年間三万人を超えている。

 

 

何故自殺が起きるのか考えたことがあります。自殺が起きるのは希望が絶たれた時で、世の中の閉塞的な抑圧に心と体が耐え切れず現実から抜け出す行為のことを言います。ゴミみたいな自分が死んでしまえば社会はもっとよくなるだろうと考えた末に起きたものなのです。

 

 

とっても悲しいのですがこれもまた現実です。現実に生きていけず、自分が何のために生きているのかわからなくなり、死んでいく。ただこの現象からわかることがあります。この世界には現実で生きることが困難で、自分だけの現実を抱いている人がいるということです。そうでなければ自殺を図るわけがありません。

 

 

そこでぼくはその人たちのことを、天才なのではないかと考えるに至りました。なぜなら自殺をする理由というのは「ぼくが死んでしまえば社会は良くなるだろう」という使命感をもっているからです。天才とは使命に生きるひとのことを言います。それをわずかながらも感じ取っている自殺志願者たちは社会にとってはゴミのように見えますが、実は熱い想いを秘めた天才である可能性が高いのです。

 

 

現実空間と個人空間

 

 

現実空間とは「集団を生存させるために不要な意識を全て削除した空間」のことを言います。個人空間とは「個人の感覚(五感や意識)がありのままに表現された空間」のことを言います。天才も始めは現実空間で生活をしています。しかしそんな生活をしているとだんだんと息苦しくなり、やがてはその現実空間から抜けだそうとします。

 

 

しかしそれは苦難の連続でもあります。現実空間を抜けだすと、そこには個人空間があるわけですが、集団を生存させるために不要な個人空間を現実空間はまるでウイルスが侵入してきたかのように削除しようとします。これが集団から天才を孤立させます。

 

 

孤立した天才はやがて個人空間に閉じこもるようになります。異常とも言えるような現実空間の拒絶反応に耐え切れず、傷を癒やすために引きこもるのです。そうして個人空間で閉じこもっていると、周りから変人あつかいされ、さらに天才は孤独へと追いやられます。

 

 

しかし天才たちは個人空間からじっと現実空間を見つめていました。社会にはこんなにも穴があって、実は見せかけだけの世界なんじゃないか。このままじゃ世界は崩壊してしまう。そう思い立った天才たちは客観的に現実空間を見ることができ、問題点を発見することができました。

 

 

ただ現実空間という管理社会を救うためには、彼ら全員を動かす必要があります。それは現実空間にとって有益なことでなければなりません。そうしないとすぐにでもウイルスバスターが不要な情報として削除しようとしてくるからです。そこで天才たちは絵を描き、文章を書き、歌を歌い、政治を作ることにしました。それが創造であり才能なのです。創造とは個人空間から現実空間へソフトをインストールするようなものです。

 

 

こうして新たなソフトをダウンロードした現実空間はさらにアップデートされ、平和な社会へと近づいていくのです。天才に至るためにはまず現実を認識する必要があります。そのためには現実を抜け出し死をリアルに感じるのです。そうすることで自分だけの個人空間を発見することができ、自分だけの才能を見出すことができます。そして客観的に社会を見つめなおし、社会にとって理解できるような価値を提案することが必要になってきます。

 

 

世界はパソコンであり才能とはソフトである。現実空間は大きな一つのサーバーであり、個人空間はたくさんの小さなサーバーといえるのかもしれません。