Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

泳げるかどうかは関係ない。水からでなければ溺れ死ぬだけだ。ー論文批評ー

 

この論文はセオドア・ドライサーというアメリカの作家が書いた「天才」という自伝から彼について論じたものです。ぼくはこの論文から一つの天才に関する答えを見つけました。ドライサーは自伝「天才」の中でこんなことを言っています。

 

描かないではいられないのだ。仕方がないのだ。人が水に落ちたとき,いかに泳ぐかなんて問題にならない。下手だろうと上手かろうと関係ない。水から出なければ溺れ死ぬだけだ。

ドライサーの『「天才」』論 - 複製技術時代の芸術 - より抜粋

 

 

これが全てを物語っていて、ドライサーはもちろん天才を自覚していた人物です。天才について悩むのは天才を自覚している人だけだからです。ぼくは今までに天才とは必ず絶望を体験していると言っています。そうすることで初めて生きる感覚を味わうことができるのです。

 

しかし天才として生まれ変わってしまった以上、彼には新たな死という概念が生まれました。多くの人にとって死とは命が失われることです。ですが天才にとっての死とは生き続けるということであり、己の使命を果たし続けるということなのです。だからこそドライサーは描かずにはいられなかった。作家として文章を描き続けることが、彼にとって死を回避する唯一の術だったのです。

 

天才として生き続けるためにはこのように、何かしら表現をしていく必要があります。それではぼくたちは何をするべきなのでしょうか?天才とは生きる目的を見つけた人であるので、何かをするための目的はすでにあります。


次に必要なのはいかに表現していくのか。そのヒントは「自分が辛い環境で何に癒やしを求めるのか」ということです。死を回避し、生きるということは「死の恐怖から身を癒やすこと」とも言えます。ぼくは辛い時、文章を書き、エレクトロニカを聴き、部屋を変えたりします。この行動をメモに記録していくことでやがては結果もついてくると思います。