Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

「ぼくならこうする」岡本太郎に習う、他人の目を気にせず生きていく方法

今までぼくは偉い人たちに「他人の目なんて気にしてたら何もできないよ」と言われてきました。確かにその通りだと思うのですが、いまいち何を言っているのかわかりませんでした。それでもぼくは「自分ごとだけではなくて、他人のことも考えているんだ」と言い聞かせ「彼らはエゴイストだ」と自分を納得させていました。しかしその考え方は違っていたようです。岡本太郎は「他人の目を気にしないこと」についてある答えを提示しました。

 

ぼくだったらこうする

 

何か、これと思ったら、まず、他人の目を気にしないことだ。また、他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、萎縮せずありのままに生きていけばいい。これは、情熱を賭けられるものが見つからないときも大切だ。つまり、駄目なら駄目人間でいいと思って、駄目なりに自由に、制約を受けないで生きていく。そうすれば、何か、見つけられるチャンスがおのずからひらけてくる。一日も早く実行してみるといい。

 

なるほど、他人の目を気にしない上に、自分という存在を定義しないことも大切なのか。けれどそれではただの何も考えない人間になってしまうんじゃないか。そんな不安をよそに岡本太郎は続けてこう言った。

 

ぼくはこうしなさいとか、こうすべきだなんて言うつもりはない。「ぼくだったらこうする」というだけだ。それに共感する人、反発する人、それは自由だ。自信がないと悩む。それはその人が、人生にたいしてコンプレックスを抱いていることの表明なのだ。弱いと自分自身思っている人ほど強くなりたいと意識する。それは別に、悪いことじゃないけれど、弱さを何とかごまかそうとしたり、強くみせかけようなどとすると、ますます弱くなってしまう。他に比べて弱くても、自分は充実して生きている。これで精一杯だと思えば、悔やむことも嘆くこともない。人生はひらく。

 

この言葉を知ったとき、ぼくのこれまでの悩みは晴れていきました。「ぼくだったらこうする」という決意はまさに社会との対峙です。岡本太郎の天才たるゆえんだと思います。他人の目を気にせず、自分という陳家なプライドを捨て、弱さを自覚し、その上でぼくだったらこうすると決意する。

 

ぼくは肩書をもつことが自信につながると考えていたし、精神的にも豊かになると思っていたけれど、それは甘い考えだった。ぼくたちはそんな言葉にどこか安心して、社会での安定を望み、しかし実は生きる歓びを失っていたのだ。

 

肩書きを気にせず、弱い自分を出していく

 

もし裕福に生きたいのなら、たくさんの肩書きをもつことは大いに役立つと思います。自分はこういう人間だと言ってしまえば迷うこともなくなるし、余計なことに手を突っ込むこともなくなるので生活は豊かになっていく。ただし天才にはなれないと思います。

 

天才とはその使命を果たすべく、死ぬまで命を削り続ける存在です。そこに安定の道は決してありません。死ぬまで危険な道を歩くことになります。生きている間は一瞬たりとも気を抜くことはできません。それでも生きる歓びを知り、後悔せずに生きていくためには天才として生きることを決意しなければならないのです。

 

これからのぼくは何をしたらいいだろうか。やはりジョブズが言ったように貪欲に謙虚であるべきなんだと思う。社会はその形を保ち、平穏であるために制約をつくっている。しかし制約ができると必ずどこかしら、エラーが発生していく。それにたいして真っ向から対立していく。

 

天才とは芸術家とも言えます。自分の生き方を芸術する。岡本太郎の言い放った「芸術は爆発だ」という意味は、そういうことなのだと思います。