Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

天才の現象について科学的検証をしてみる

物事を科学的に検証する際には、ある現象に対して注意深く観察して、類似性を発見し、独創的な発想力のもと、帰納的に検証をしなければなりません。

そうした場合、天才という現象を科学的に検証するためには、天才の存在をある一つの現象ととらえる必要がありそうです。要するに、天才を一種の生物と仮定して彼らの起こす行動(現象)を観察する必要があるのです。そうして天才を一種の生物と仮定すると、彼らの目的は、他の人間と同様、エゴイズムであり、個人の利益を追求する生き物であることには相違ありません。人間、いや生物というのは自己の繁栄のためだけに存在しようとすることは議論するまでもなく明確です。しかし、一般的な生物と天才という生物はある点を覗いては決定的に異なる生存上での目的が発見されています。

それは目的を達成するための手段の相違です。「目的を叶えるために用いる手段」に決定的な違いがあるのです。ふつう、人間という生物は直接、自分に対して利益がなければ歓びを感じえない生物ですが、天才という生物の場合は、そうではなく他人の利益に対して歓びを感じることのできる特殊な生物なのです。少しわかりにくかもしれませんが、G(genius)は自分だけが利益を得ることに対して、とても否定的であり、卑しみの念さへ抱いています。なぜGはこのように特殊な思考をするのかを説明してみましょう。

私たちの住むこの空間には、<世界>があり、<人間>がいます。しかし、それだけではなく、人間が複数存在する場合には、彼らの間で起こるそれぞれの問題を解決するため、あるいは共同で生活するために、<社会>という空間が形成されます。このように私たちの住む空間には<世界><人間><社会>という3つの独特な空間が存在することになります。そのうち、<人間>という枠を<天才>に置き換えてみると、天才を社会学的に検証することができます。

<天才>は社会学的に見れば、社会の意志によって生まれた、社会の産物です。天才の活動を見れば一目瞭然ですが、天才の活動において<社会>という空間に属さない活動はありません。<天才>の活動が偉業とみなされるのは、人類の前進に進歩したからこそ得た、賞賛であるからです。よって天才の活動は<社会>という空間に属していることが明確になります。しかし、なぜ彼らが社会的な活動をしたのかといえば、それは一度<社会>という空間から拒絶されたからに他なりません。彼らが才能を発揮する際、<社会>空間では異質だと見られます。なぜなら、天才の活動は社会の意志に反していることがほとんどだからです。つまり非常識であるので、一度<社会>空間から排除されます。<社会>から排除された<天才>の精神状態(意志)は絶望的な状態になります。絶望的な状況とは、全ての関係が絶たれた状態のことを言い、人間であれば全ての<対話>、つまり言語による対話と社会との対話が絶たれてる状態です。その状況の中で、<天才>は内的対話だけが行える状況に陥ります。しかしこの状況は決してマイナスではありません。内的対話を継続している内に、天才が社会に拒絶された問題は、だんだんと神格化されていきます。とてもじゃないけれど、人間の手に負える問題では無いと内的対話の中で一つの真理として仮定されるのです。

本来であれば、この時点で諦めてしまうのが人間ですが(この状態がいわゆるうつ病だと言われる)、<天才>はそうではなく、神格化された問題(崇拝)を世俗的な問題へと認識の転換を試みます。あまりに無謀なことに見えますが、そうではありません。つまり人間というのはあくまでも言語を扱う生物であり、言語認識さへ変えてしまえば、いかなる現象もなし得ることができるのですーいくらカラスが黒いといえど、一度の全ての人間がカラスは白いと対話することで、カラスは黒いという真理が転換されるというように。このように崇拝されていた問題を世俗的な問題へと視点を転換させることで、<天才>は問題の解決を達成します。しかし先程も説明したように、認識の転換には多くの対話がひつようであり、それだけの人数が対話を行う必要があります。つまり、<天才>が天才という賞賛を受けるためには、どうしても他人の存在が必要になってくるのです。ここで最初に説明した、「天才という生物は、他人の歓びこそが自己の利益につながる」ことの理由になります。そもそも人間という生物は未知を知ることに対して、あるいは問題を解決することに対して、快感を感じる(承認欲求が満たされるため)生物であるように、天才が問題を解決して快感を感じる過程には、どうしても大きな対話の空間であり、社会的な空間が必要不可欠であるわけです。だからこそやはり天才もエゴイズムであるのですが、自己の利益につながるためには他人の承認が必要であり、それこそが天才にとって、何よりも代えがたいエゴイズムになるのです。

塩野七生さんというローマの歴史研究家は、ローマ時代の<天才>を調べていく内に、こんな言葉を残しています。

天才にとって、賞賛は酸素のようなものなの*1

ですから、<天才>のように<社会>空間では変人に見える人がいても、危害を加えるようでなければ、温かく見守っていだたきたいのです。