Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

ジーニアスを「先天的なる存在」とする認識は大問題です。無駄なステータスの研究にいつまで時間を費やしているんですか?

ジーニアスは科学だけでは証明しきれない存在なんだ。

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↑ジーニアスは、その名称から誰もが「先天的なる存在」として信じてきた。

 

ジーニアスはその名称から、先天的なる存在として研究がされたきた

世の中に、数多くはびこるジーニアス研究。そのどれもが先天性における研究だ。脳科学や遺伝子学が先天性における研究の最たる例で、彼らはジーニアスの脳がどんな構造をしていて、どんなDNAを構築しているか、そんなことしか興味を持っていない。挙げ句の果てにはアインシュタインの脳を保存したり、遺伝子組み換えによる優れた人間の想像など、倫理を超えた研究がされてきた。

なぜ、こんな状況になっているのか。それはジーニアスの名称による問題であると考えられる。ジーニアスとは天才を指していて、その語感から天才とは「才能を持つものである」と考えられてきたからに他ならない。ジーニアスが「才能を持つもの」であるのなら、自然と研究テーマは「先天性」における問題となり、脳科学や遺伝子学によって解明されるはずだ、と仮定される。以上のような思考により、古くからジーニアスは「先天的な存在」として認識されてきた、というわけだ。

しかし、先天性におけるジーニアス研究は、あまり実績を残すことはなかった。最近行われた、「IQ170以上の人間とそれ以下の人間による遺伝子の差を比較する」という研究においても「IQの高低による遺伝的な差はない」との研究が報告されている。

ジーニアス研究において外すことのできない有名な小説に「アルジャーノンに花束を」という本がある。知的障害者である主人公のIQを、人工的に高めることでジーニアスになりうるか、という物語でしたが、急激に高められた知能は、最終的に永遠に続くことなく、多くの悲劇を招いて終わりを迎えました。

このように私たちがジーニアスだと信じて研究してきた「先天性」は、ただ知能の優れた人間の創造であって、決してジーニアスの解明には至らなかったのです。それもそのはず、ジーニアスにもし「先天性」があるとすれば、それはただのステータスの問題であって、この社会においてジーニアスだと叫ばれたのは、「その個人のステータスが時代にあっていたから」に過ぎません。

つまり、ジーニアスのステータスを「社会が求めていたから」というだけのことなのです。なので、ジーニアスを「先天的」に創造したいのであれば、その時代の社会に合わせてステータスを変換させるしか手段はありません。

しかし、そんなことができるはずもないのは十分に理解できます。知能や能力というステータスを「先天的」に限界まで引き上げたとしても、そこに社会性が含まれていなければジーニアスとは形容しがたい、ただの優れた人間と区別されてしまうことでしょう。その人の人生はアルジャーノンのように、観察の対象、あるいはひたすら優秀に目的を果たす機械として、その体がボロボロになり果てるまで酷使され続けることになります。

あらゆる学問において、ステータスの研究は意味のあるものにはなりません。なぜならステータスは時代や社会によって求められる内容が変化するからです。よってジーニアスという対象を意味あるものとして解明するためには、本質を研究しなければならないのです。

ジーニアス研究における本質、それは「意識の解明」であると私は考えています。ジーニアスの最も顕著となる現象は「創造性の豊かさ」です。ジーニアスにおける評価の本質は、ステータスではなく、「新たな価値の創造」にあります。

アリストテレスによる詩の体系化、アインシュタインによる物理学の体系化など、ジーニアスたちはその時代や社会において「新たな価値」を創造してきました。そして体系化された現象は多くの人々を巻き込んで、人類の進歩を促してきたのです。

以上のように、ジーニアスの本質は新たな価値の創造のために、「ある現象を体系化する能力である」と考えられます。ある現象を体系化するとはつまり、私たち人類の認識の内に「普遍なる意識」を創り出すことであり、ジーニアスは「常識を生み出す人である」と定義することができます。

この「常識」とも「真理」とも言うことのできる創造は、神のみに許された能力ではありません。「常識」は言語的、あるいは行為的交通による意識の対話によって創造されるのです。

私はジーニアスを「先天的なる存在」ではなく、「後天的なる存在」として研究を進めてきました。そしてジーニアスの本質は「意識の創造」にあると定義しました。よって私はジーニアス論において、「ジーニアスとは後天的なる存在であり、意識の解明こそがジーニアスを本質的に解明するために、決して避けることのできないテーマである」と仮定します。その上で最重要となるのは「交通」という概念です。交通の解明こそが意識の解明につながり、ジーニアスの解明にまでつながると私は確信しています。

  

アルジャーノンに花束を

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