Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

翻訳の難しさを体感、思考から文章への翻訳について

伝達には知性が必要だよ。けれど知性だけでは誰も理解しないという矛盾

 

↑執筆中によく聞くi am robot and proud。ラジオ要素をブログに取り入れてみる。 

 

人に理解される文章を書くには血の滲むような努力が必要

わたしは今、問題に直面している。それは論理的な文章を組み立てるべきか、それとも感情的な文章を爆発させるべきか。

理論的な文章であれば、主張する理由がはっきりしているので、知性のある人が読めば理解することができる。それとは対照的に、感情的な文章は主張する理由ははっきりしていないけれど、知性がなくても自分の感性に合わせてどんどん読み進めていくことができる。どっちが正しくてどちらが正しくないのか、なんてことは言えないけれど、「バランスよく」なんて言葉で片付けなくもない。

問題に直面してはいるけれど、実は迷ってもいない。多くの先人の知恵を借りれば、デジタル空間はヴァーチャルなので感情的な文章が適切で、現実空間はリアルなので理論的な文章が適切だと知っているから。

デジタル空間は日に日にスピードが増し、それに合わせて文章内容も変化した。SNSやブログに見られるように、タイトルやつぶやきに感情が表現されていなければ、誰もタイトルの先へ進もうとしない。「なんか面白そう」と、思わせるためには理論的な文章は不適切で、デジタル空間では死に絶えてしまう。

現実空間は変化はしているけれど、そのスピードは決してデジタル空間ほど早くはない。なぜなら現実空間では損益が直にリンクしているため、急激な変化は誰も望んでいないからだ。そんな現実空間では理論的な文章が重要になる。それは理論的に考えなければ、世界を生きることが困難になるからだ。現実空間で感情を爆発させたなら、たちまち迷惑な奴だというレッテルを貼られてしまい、現実空間から拒絶されてしまう。ジーニアス的には拒絶体験は重要なファクターになるのだけど…まぁ今回は置いといて。

 

わたしはデジタル空間では感情を爆発させます

というわけで、以上のような理由からこれからも、わたしは感情を爆発させたいと思います。思いついたことがあれば根拠だとか、要因だとか関係なく、直感を信じて大胆な仮定を展開します。そして話題になったテーマがあれば、その文章は現実空間へ解き放つ前に、よーく理論を組み立て、説得力ある文章を発表します。

ジーニアスでありたいのなら、順応性や適応力は限界まで高める必要があります。そうした寛容な器がなければ、自分の意識を拡張させるチャンスを無駄にしてしまうし、すべてが自分にとって意味あることなんだと考えていれば、実査にすべての行為は意味あるものとなります。

かつて、ゴッホは「絵になる風景を探すな。よく見ると、どんな自然でも美しい」と言いました。わたしは「どんな現象もただあるのではなく、すべてには意味があって存在している。だから感性の赴くままに、自分を信じて行動しよう」という意味が込められていると思っています。そして、この感情もまたゴッホ的思考を借りれば、美しい自然と捉えることができるのではないでしょうか。