ポートレイトには被写体との「熱い愛なざし」が交わされている。
彼は、その人たちに自分の眼差しを贈っていた。
『内なる静寂』
ポートレイトは難しい
写真の最も一般的な使い方に、被写体に人物を写す「ポートレイト」という撮り方があります。最近ではセルフィー(自撮り)が単語として新たに登録されるなど、ポートレイトは今まさにホットな写真となっているようです。なぜ人がポートレイトを撮るのか、その理由は様々ですが、荒木経惟、森山大道、ブレッソンのように時代に名を残してきた写真家はポートレイト写真こそが最も難しい、とインタビューで答えていました。
緊張する視線
ポートレイトには必ず、写真家自身と被写体となる相手が、面と向かって対面している必要があります。たいていの場合、彼らは全くの初対面で、相手の素性をほとんど知りません。そんな時、人は相手を信用する前に「疑いの視線」を送ります。「この人は一体、誰なんだろう」と。そこで写真家は、緊張した視線を送ってしまうと、間違いなくその写真は、緊張した顔が映し出されてしまいます。ここにポートレイトの難しさが現れてくるわけです。写真はただ正面の世界を切り取るだけの道具ではありません。写真は絵を描くのと変わらず、写真家自身が緊張すれば緊張した写真が、苦しければ見ているだけで苦しくなってくるような写真が写し出されます。こうした現象は僕たちが言葉を話す時も同様です。人が誰かに向けて話をする時、その話の内容は必ず自分が気になっていることを話しているように、写真においてもその当時の感情(時間)が、目の前に描き出されてしまうのです。それでは一体どうすれば、自然な無理のないポートレイトを撮ることができるのでしょうか。そのためには被写体を写すのではなく、被写体を通して自分自身を写すことが、何よりも重要になってきます。
交差する、熱い眼差し
ポートレイトは相手の顔を記録として残す写真なのに、どうして写真家自身を写さなければならないのでしょうか。なぜなら、写真を撮るということは、どうしても写真家がカメラのシャッターを切って、被写体を写さなければならないからです。つまり、写真は自分と被写体とが存在して初めて成立する、対話であり、贈与であるため、写真家自身の描き出されない写真は「不自然なもの」となってしまうのです。
この写真は荒木経惟さんの「さっちん」という写真集に掲載されている有名な一枚です。この写真は疑うまでもなく、子供達のパチンコの先には荒木経惟自身が写っています。子供達の視線に注目してみてください。子供達は明らかにカメラを通して荒木経惟に視線を送っています。それに対して荒木経惟はやはりカメラを通して、子供達に視線を送り返しています。この間には視線と視線の熱い交差が生まれ、意味のある写真が描き出されています。これは視線と視線による贈与と返還に他なりません。
必然的に描き出されるポートレイト
写真家がカメラを通して被写体を写す時に、写真家と被写体との間には「何かしてやろう」という視線による意思の交換がなされます。それぞれの意思はカメラを通して一つの意識(センス)として空間に形成され、彼らの間には風景として存在する以上の、何か「意味のある写真」が描き出されます。このように自然で無理のない、つまり演出されていない偶然と偶然の織りなす必然のポートレイトは、写真家自身を被写体の中心としておくことで描き出される「ほんの一瞬の芸術」なのです。
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ポートレイト 内なる静寂―アンリ・カルティエ=ブレッソン写真集
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