Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

結晶化する言語について、あるいは輝ける天才(テクスト)の青春について

 

 

結晶体のピラミッドが隆々と浮かび上がるのを僕は見た。それはひたすら美しい光景で、記号としてイメージを保っていた言葉は崩壊し、結晶が飛び散っていく光景にただただ茫然としていた。青く透き通った結晶体は、驚くべきことに電気信号のように意識を送り出すと、ぎらりと発光して内側から新たな結晶体が芽生えてくるのだった。(ある日見た夢の記録)

 

 

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”結晶化と三角形の記号”

 

 

   結晶化する言語

 

 

言語を観察していると、まるで「結晶体のような運動」が見られる。それは線と面と色価の織りなす幾何学の運動」と同様のものだった。古代ギリシャ時代、三大哲学者であるプラトンは学術アカデミー「アカデメイア」を建設した。ソクラテスに師事し、アリストテレスを弟子としたプラトンは、アカデメイアの入門者に「幾何学を知らぬものは入学を禁ずる」と伝えた。様々な諸説は存在するが、僕は幾何学とは「世界を知るために基本的な術である」からだと思う。人間は全ての物体・現象を「記号」として認識しているに過ぎず、点と線によって構成される記号は、幾何学の構成と全く同一である。つまり、記号の中に意味を付け加える人間の性質から考えて、幾何学を知らなければ、一切の知識は意味(表象)を見ているだけに過ぎず、その下に隠れている「物事の本質」を理解することは到底「不可能」であるということになる。

 


 


「学術」を身につけるためには「言葉」を扱わなければならない。「言葉」を扱うためには「幾何学」を知らなければならない。「幾何学」を知るためには「意味」に囚われてはならない。「意味」に囚われないためには「記号」見つめなければならない。「記号」を見つめるためには「線」を辿らなければならない。「線」を辿るためには「想像」しなければならない。「想像」するためには「自然」に身を委ねなければならない。「自然」に身を委ねるためには「鳥の言葉」を理解しなければならない。「鳥の言葉」を理解するためには「祈り」を捧げなければならない。「祈り」を捧げるためには「神」を信じなければならない。「神」を信じるためには「自分」を感じなければならない。「自分」を感じるためには「死」を通過しなければならない。「死」を通過するためには「光」を失わなければならない。「光」を失うためには「暗闇」に身を潜めなければならない。「暗闇」に身を潜めるためには「意識」を崩壊させなければならない。「意識」を崩壊させるためには「魂」を目覚めさせなければならない。「魂」を目覚めさせるためには「音楽」を奏でなければならない。「音楽」を奏でるためには「線」を描かなければならない。「線」を描くためには「エリクチュール(宙を舞うこと)」を描かなければならない。「エリクチュール」を描くためには「踊り」を踊らなければならない。「踊り」を踊るためには「線」を引かなければならない。「線」を引くためには「沈黙」しなければならない。「沈黙」するためには「陶酔」しなければならない。「陶酔」するためには「美」を観照し続けなければならない。「美」を観照し続けるためには「幾何学」と一体化しなければならない。「幾何学」と一体化するためには「呼吸」を落ち着かせなければならない。「呼吸」を落ち着かせるためには「瞑想」をしなければならない。「瞑想」をするためには「三角形」を築かなければならない。「三角形」を築くためには「足」を組まなければならない。「足」を組むためには「線」で支えなければならない。

 


 

 

つまり僕が言いたいのは、天才(テクスト)とは「結晶化した言語」であるということなんだ。言語同士の結びつきが意識(記号)の集合体となって結晶化する。その結果、全く未知の新しい言語が生まれてくる。人々はその美しい光景(結晶作用)を目にして、彼の天才性を賛美する。天才は決して科学では解明することはできない。言語を解明するためには、対話(記号同士を結びつける行為)を繰り返す以外に術はない。だから僕たちは音楽を奏で、踊りを踊り、線を描いてきた。幾何学が世界の理であるのなら、その歴史はこれからも続いていくことだろう。