Nowhere Man's Side

何者でもない人達へ

統制された社会に対して、混乱させる劇薬を投与しよう。

社会を悶えさせる劇薬をつくる方法について。

社会の脅威となること

誰もが憧れる表舞台へと立つためには、社会にとって脅威となるような、危険な劇薬を投与する必要がある。聖書では禁断の果実として記述されている、楽園をも崩壊させる危険な知恵。そのためには何よりも社会空間をしっかりと捉えて、的確に急所をつくことが求められる。「社会は悪だ」そのくらいの意気込みがなければ、よほどの育ちと技術を持たない限り表舞台へと立つことは叶わない。

そこでぼくという存在は社会にとって脅威となるのか考えてみる。現代社会で脅威となるのは、安保法案や新国立競技場原発朝日新聞、などGoogleで「批判」と検索すれば、いろんな人たちの批判が表示されて、何が議論されているのか確認できる。

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感情に任せた批判に価値はない

しかし、安易に以上のような批判に乗るべきではない。なぜなら批判はイメージダウンの対象となってしまうし、何より面白くない。昨日や今日のニュースを批判するだけでは3年後や5年後には全く価値のない記事になってしまう。それでは一瞬だけ有名になったとしても、すぐに舞台からは引きずり落とされてしまい、テレビでよく見かけるお笑い芸人の二の舞を踏んでしまう。それよりもこれからの未来を見据えて、社会を批判する方が賢明だろう。

ジーニアス哲学論的に言及すれば、権威に対して真っ向から抗うのではなくて、まったく新しい価値を提供することで、将来においても価値を持つことができると考えている。権威は真理性を帯びているので、批判をいくらしようともステータスは上下を繰り返すだけ。結果的には何の意味もない、ただの時間の無駄になってしまう。

そうではなくて、権威を承認しつつも、まったく新しい視点から批判(というより発想)することで、社会との衝突を試みる。衝突が始まった時はステータスとしては0だけど、何度も発想を繰り広げることで、新しい発想は真理性を帯び始める。つまり0から10ぐらいに上がる。そして、流れに乗りたい人たちがどんどん押し寄せて、新しい発想は体系化していき、真理性はいつかは100に近いステータスを持つ。その時にはすでに表舞台へ立っているだろう。こんな具合で批判という名の「発想や常識はずれ」を繰り返すことが、社会で名声を得るために必要なことで、怒りという感情に任せて批判するだけでは、すぐに賞味期限切れになってしまう。

 

おわりに 

もしぼくが社会に対して、新しい発想や常識はずれの発言をするなら、的外れの批判に対して批判することかもしれない。悪口を言い合って、仲良くなるなんて子供だよ。

 

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間

自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)